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04.09 Sun

【短編】 会う時はいつも夜の下


 記憶の中のおじさんは、いつだって暗い夜闇の下に佇んでいる。

 2階建て、古い木造アパートの1番端っこがおじさんの部屋だ。日が暮れた後の夕飯時に、毎日のように母親に手を引かれておじさんの家を訪れていた。母が作った夕飯のおかずを届けるためである。
 ピン、ポーン。
 古めかしい外観のアパートによく似合う、明るくて何処か間の抜けたチャイムの音。がちゃりと開けられる玄関扉には、必ずと言っていいほどいつも防犯用のチェーンが繋がれていた。おじさんは神経質なのだ。女の子の1人暮らしじゃないんだから、と言って母は笑い、父は呆れた様子を見せていたが、僕はずっとおじさんのほうが正しいと感じていた。連日のように夕方の報道番組を賑わせる物騒なニュース。幼心に、心配はしすぎてもしすぎることはないのだと思っていた。
 玄関扉から覗く狭い廊下には、いつも明かりがつけられていなかった。それが何故なのかは分からない。暗いほうが好きなのか、それともささやかな電気代の節約なのか。どちらにせよ、暗がりの中に立つおじさんの表情は酷く陰鬱で気難しそうに見え、当時の僕はおじさんのことをあまり好ましく感じていなかった。何より、おじさんが笑っている姿を目にしたことがない。
「ほら、幸基、豊おじさんに「こんばんは」は?」
「……こん、ばんは」
 母が僕の背中を押しておじさんの前に突き出すその度に、おじさんは表情の乏しい顔で僕のことを見下ろしてきた。
「義姉さん、まだおじさんは勘弁してくださいっていつも言ってるじゃないですか」
 おじさんは僕の父親の弟だ。歳の離れた兄弟で、父が20歳の時に僕が生まれたということもあり、僕とおじさんの年齢は12歳しか離れていない。
 当時おじさんは法学部に所属する大学3年生で、司法試験の受験資格を得るための司法試験予備試験の猛勉強の真っ最中だった。高校を卒業後、8つ歳が離れたお兄さん――つまり僕の父親だ――が家庭を築いていた茨城県の町に身を寄せて、1人暮らしをしながら近くの大学に通っていたのである。
 兄弟の仲は悪くないらしい。塾講師のアルバイトをしながら試験勉強に励む弟の身体を心配し、夕飯のおかずを届けてあげようと母に提案したのも兄である父だ。歳の離れた弟が可愛いのだろう。
 僕もお兄ちゃんか弟が欲しい。
 1人っ子の僕はかつてそう言って母に駄々をこねてみたことがある。しかし「豊おじさんがいるんだから我慢しなさい」と一蹴されて、相手にもしてもらえなかった。今思えば実におかしな代替案だ。それでも何故かその時の僕は、母の言葉に妙に納得してしまっていた。

「こんな時間にひとりで何をしているの」
 突然聞こえてきた低く鋭い声に、僕はびくりと身を強ばらせた。午後9時35分のコンビニエンスストア。補導されるにはまだ早い時間のはずだが。びくびくしながら振り向くと、しかしそこにいたのは黒いスーツに身を包んだおじさんだった。
「……おじさん」
「お兄さん、のほうが嬉しいんだけどな」
 抑揚の少ない声でそう言って、おじさんは僕の手を引いて歩き始めた。彼の手は母のものよりも大きく、それでいて骨張っているせいか指は酷く細く感じられた。
 コンビニを出て少ししてから、おじさんは静かな声色で尋ね直してきた。決して強い口調ではない。けれどもおじさんの言葉は不思議な強制力を隠し持っていた。
「で、どうしたの。グレるにはまだ早いんじゃない」
「……お父さんはいつも帰りが遅いし、今日はお母さんも仕事が夜勤だから」
 あぁ、そういえば。おじさんは僕の言葉に納得したように頷いて見せた。
「義姉さん、4月から看護師の仕事再開したんだっけ。大変だよね、人の命を預かる仕事って」
 ガサガサと、左手に提げたビニール袋が音を立てる。ひとりでも退屈することがないように、と。両親が用意してくれたたくさんの小説、漫画本、そしてゲームソフトの山々。中学2年生にもなって過保護なことだ。まるで他人事のようにそう思う。現に僕を家の中に留めておこうとする両親の企ては失敗に終わり、欲しくもないお菓子を買いに外出をした僕は、こうしておじさんに補導されている。
 おじさんに会うのは実に久しぶりのことだった。
 超難関と言われる司法試験に1発で合格をしたおじさんは、大学卒業と同時に弁護士事務所で働き始めた。自慢の弟だ、そう言って喜んでいた父親も、ようやく自分の弟が1人前になっていたことを実感したのだろう。昔ほど密に連絡を取ることを止め、当然のように母も4人分の夕飯のおかずを作ることを止めていた。
 皺ひとつないワイシャツと黒いスーツ。清潔に整えられた髪と紺色のプラスチックフレームの眼鏡。社会人になったおじさんは、何処からどう見ても立派な大人そのものだった。
 田んぼと畑が多く、住宅がまばらな僕の自宅周辺は、太陽が沈んだ途端に夜闇の中に閉ざされる。鼓膜が破れるのではないかと思うほどの静寂がやかましい。ぽつり、ぽつり、と灯った街灯の明かりだけが、アスファルトをぼんやりと照らし出していた。そこに長さの違う2本の影が伸びている。
「することがなくて外をふらふらしてるくらいなら、おじさんのうちに来ればいい。7時には、仕事を終えて帰宅してると思うから」
 その言葉に僕は俯かせていた顔を上げ、頭ひとつ分ほど身長の離れたおじさんの様子を窺った。相変わらずその顔は表情に乏しくて、けれども夜闇の中にいてもちっとも怖いとは思わなかった。
「誰だって、ひとりでいるのは寂しいことなんだよ」
「……うん」
 頷きながら、ようやくおじさんの手のひらを握り返すと、ふっと、その口元が緩んだような気がした。

 それから母が仕事で家を空ける夜はほぼ毎日、おじさんの家で勉強を教えてもらうようになった。
 司法試験に一発で合格したおじさんはとても優秀で、優秀が故に仕事で残業をすることもなく、夜は殆どひとりでアパートの部屋の中にいた。
 決まった時間、午後7時。暗がりから顔を出すおじさんはやはり神経質に玄関扉をチェーンで繋いでいて、僕の姿を目にしてようやくそれを解放してくれる。
 勉強を教えてもらうと言っても、実状は僕が勝手におじさんの家で学校の授業の予習と復習をしているだけだった。受験に熱心な先生がいて、僕たちはまだ中学2年生だというのに、暇潰しにはもってこいなほどの問題集や参考書を与えられていた。人と比べて理解力に乏しい僕は、古典も、数学も、英語も、すぐに分からなくなってシャープペンシルを握る手を止めてしまう。するとおじさんは僕が何も言わなくても、「どうした、何が分からないんだ」と読んでいた本から顔を上げ、一緒に問題集を覗き込んでくれた。
 ゴミひとつ落ちていない、綺麗に整理整頓された8畳1間の和室。
 おじさんは司法試験に受かっても勉強ばかりをしていた。本当に「勉強」が必要になるのは社会人になってからなのだと、おじさんは口癖のように繰り返し口にしていた。いつ部屋を訪れてもおじさんは分厚い本を相手に勉強ばかりしていたけれど、僕は自宅でゲームをしているよりも、そんなおじさんと一緒に学校の勉強をしているほうが好きだった。
 ひとりではない、と。感じることが出来たからかもしれない。
 ――豊おじさんがいるんだから、
 皮肉にも、母の言葉は数年後には現実のものになった。けれどもそれは与えられただけの不可抗力のものではない。僕は僕の意志で、おじさんと一緒にいることを選んでいたのである。
 僕がおじさんの家に入り浸っていると知って、しかし父も母も嫌な顔ひとつしなかった。それはそのままおじさんへの信頼の表れだったのかもしれない。
 おじさんは昔から生真面目で遊びっ気がなく、笑わない代わりに他人を怒ることもしなかった。それはある意味でとても異様なことだったのかもしれない。けれども毎日学校の先生や母に口うるさく小言を言われていた僕にとって、そんなおじさんは物語の中の仙人のような存在だった。おじさんは僕の身の回りにいるどんな大人よりも大人で、分からないことを聞けば何でもすぐに教えてくれた。物腰もやわらかく丁寧で、おじさんよりも8歳年上の父のほうが、僕の目には子どもっぽく映る。お酒を飲むのが大好きな父は、すぐに大きな声を出しては僕と母を驚かせていた。
「豊くんには、彼女いないのかしらね」
 何かの折りに、ぽつりと母がこぼした言葉である。久々に家族3人が揃った休日の夕飯時のことだっただろうか。様々な業界の裏側を覗く、というテレビ番組の企画のひとつで、弁護士たちの1日に密着した映像がリビングには流れていた。
「そういえばそういう話は聞いたことがないな。豊も俺に似て顔はいいんだけど」
「豊くんはあなたと違ってお母さん似でよかったわね」
 そんな両親の会話を聞きながら、もしもおじさんに彼女ができてしまったら、僕はもうあのアパートにはいられなくなってしまうだろう、そんなことを考えて僕は不安になっていた。おじさんが玄関扉のチェーンを開けて部屋の中に招き入れるのは僕だけでいい。そんな、子どもじみた独占欲があったのかもしれない。
 たった1度だけ、おじさんの友人らしき人物を目撃したことがある。
 それは中学3年生だった10月の出来事だ。中間試験の最終日だったからよく覚えている。
 午後7時。いつも通りの時間におじさんのアパートを訪ねると、珍しく人の話し声が耳に届いた。強い地震で倒壊してしまうのではないかと思えるほどの古い年代もののアパートは、入居者が少ない。不思議に思って声のしたほうに顔を向けると、2階の1番端っこ、おじさんの部屋の前に見慣れない人影が立っていた。開けられた玄関扉にはチェーンが掛けられていない。暗い夜闇の中で訪問者の姿はよく見えなかったが、玄関から顔を出すおじさんよりも身長が高いことから、恐らく男性だろうと見当がついた。会話の内容までは聞き取れない。1言、2言と言葉を交わして、焦げ茶色の玄関扉が閉ざされた。
 カン、カン、カン、カン、
 階段で顔を合わせたその人は、明るい金の色でその髪を染め上げていた。目つきは悪く、狭い場所ですれ違ったら問答無用で道を譲りたくなってしまいそうな風貌をしている。ふわりと漂う煙草の匂い。おじさんとは一体どういう関係なのだろう。生真面目で神経質、品行方正がスーツを着たような性格のおじさんと、何かひとつでも共通点があるようには見受けられなかったのである。通り過ぎるその一瞬の間に彼がこちらに視線を向けてきたことに気づいたが、僕は気がついていないフリをした。
 ピン、ポーン。
 玄関のチャイムを慣らしてからぴったり25秒。玄関扉には、再び細いチェーンが繋がれていた。訪問者と僕が顔を合わせていたことを知らないであろうおじさんに、彼の正体を尋ねることは出来なかった。

 高校に入学して部活を始めると、次第に僕の足はおじさんの家から遠ざかるようになっていった。決して実績のある運動部ではなかったけれど、練習は毎日夜遅くまでやっていて、それが終わる頃には僕はへとへとに疲れ果ててしまっていた。放課後はただ帰宅するだけだった中学生の時とは異なり、チームメイトや友人たちと一緒に過ごす時間も増えた。おじさんの仕事が忙しくなり、家を訪ねても留守にしていることが多くなったということもある。
 高校からの帰り道にあるおじさんのアパート。当たり前についていた窓の明かりが灯らない部屋を、僕はどうしてもおじさんの部屋だと思いたくなかったのかもしれない。
 毎日のように顔を合わせていたおじさんと会えなくなった寂しさは、けれども騒々しい日常の中に埋もれてあっという間に消え去ってしまった。一時芽生え掛けていたおじさんへの執着も一体何処へ行ったのか。自覚していたよりも薄情だった自分自身にほんの少しだけがっかりしながら、同時に僕は安心もしていた。
 このままひとりでおじさんの家に入り浸っていてはいけない。
 おじさんの友人を目撃してからずっと、心の片隅で何処か意地のように思っていたことだった。
 だからおじさんが引っ越すということを知った時も、僕はあまりショックを受けなかった。ショックを受けていないと、思っていたかった。

 古いアパートのベランダに、ぽつりと灯ったホタルの光を見つけた。
(おじさん、まだ起きてたんだ……)
 驚きと、安堵と、そして幾ばくかの戸惑い。もしもおじさんが起きていなければ、素直に諦めて帰ることが出来たのかもしれない。
 何故こんな時間に起きているのか。けれどもこの疑問はそっくりそのまま自分自身にも当てはまるものだ。おじさんに尋ねられたなら、僕は上手な回答を提示する自信がなかった。
 吐き出した息が白く濁って辺りを漂う。
 アパート脇の外灯に明かりがついているのを、ここ数ヶ月の間は見た記憶がない。管理をしているのは町なのか、それともアパートの大家さんのほうなのか。けれどもそれが今まさにこの瞬間の僕の心情を表しているようで、僕は少しだけ自嘲的に笑ってしまった。
 ピン、ポーン。
 草木も眠るほどの深い寒空の下で、玄関のチャイムがやけに明るい音を奏でる。それからぴったり25秒。ゆっくりと開けられた焦げ茶色の玄関扉には、見慣れた防犯用のチェーンが繋がれていた。
「……高校1年生がこんな時間に何をしているの」
 ふわりと漂う嗅ぎ慣れない匂い。火の点いた煙草を指の間に挟み込んだまま、僕の顔を見て訝しげに眉を顰めたおじさんは、しかしあまり驚いてはいないようだった。そのことに何故か酷く傷ついた気持ちになる。
「引っ越し、明日だってお母さんに聞いたんで」
 扉を肘で押さえながら、おじさんは器用に携帯灰皿の中に吸いかけの煙草を押し込んだ。季節外れのホタルの光が消える。
 いつも通りの暗がりの中、僕の言葉に鼻を鳴らしたおじさんが、喜んでいるのか怒っているのかは分からない。元より僕はおじさんが笑っている姿をあまり見たことがない。
 あぁ、おじさんの目は奥二重なんだな。
 身長が伸び、昔よりも近づいたおじさんの顔を眺めながら僕は思った。兄である父親が一重だったから、てっきりおじさんも一重なのだとばかり思い込んでいた。
 きっと、人生はそんなことの連続にすぎないのだろう。
「それは律儀にありがとう。だけど俺はお前の親父でも、ましてや兄貴でもないんだよ」
 突き放すような言葉に、僕は心が折れそうになる。おじさんは昔から、決して声を荒らげて怒ることをしなかった。けれどもいつだって静かな声色と正しい言葉で、僕のことを導いてくれていた。そう思った途端に目頭が熱くなる。
 喉の奥からようやく絞り出した声は、自分でも笑ってしまえるくらいに震えていた。けれども幸か不幸か、最後まで涙が流れ出てくることはなかった。
「だって……受験勉強とか、おじさんにはいっぱいお世話になったから。それに、昔は「おじさんじゃなくてお兄さんって呼んで欲しい」って言ってたじゃない」
「そんなことはもう忘れたよ」
 おじさんは明日、東京に引っ越していく。今働いている弁護士事務所よりも大きなところから声を掛けられたのだという。いわゆるヘッドハンティングというやつだ。おじさんは優秀だから司法試験に合格し、優秀だから東京の大きな事務所に引き抜かれ、
 優秀だから、僕の気持ちなんて分からない。
 ひとつ、ひとつ、丁寧に数式を説明しながら数学を教えてくれた。苦手な熟語を覚えられるよう、仕事の休憩時間を使って英単語帳を作ってくれた。そんな思い出も、しかしおじさんはすぐに忘れてしまうだろう。映画を一緒に観に行く約束。欲しがっていた誕生日プレゼント。勉強は人の何倍も得意なくせに、おじさんはすぐに他人の言葉を忘れてしまう悪癖があった。そんなことはもう忘れたよ、そう言って、おじさんはそのうち僕の存在すらも忘れ去ってしまうに違いない。
 午前3時の別れは雄弁だ。
 全ての家財道具と思い出が段ボールに詰め込まれた空っぽの部屋の中。ベランダでひとり煙草を吸っていたおじさんが一体何を思っていたのか。それを僕が知ることは一生ない。そして、そのほうがいいのだろうと僕は思う。
「……おじさん、」
「ん?」
「煙草、1本もらってもいいですか」
 僕の言葉におじさんは一瞬だけ目を見開いて、けれどもすぐにいつも通りの感情に乏しい顔に戻って返答を口にした。
「だーめ。お前がちゃんと大人になったら、その時に買ってあげるよ」
「本当に?」
「うん、約束だ」
 そうしてズボンのポケットから青色のライターを取り出すと、そのまま僕の右の手のひらに握らせてきた。おじさんの手はとても大きくて、それでいて指は繊細なほどに細くて、こんなにも冷たい夜の中だというのに、何故だか酷くあたたかかった。
「……どうせ、すぐに忘れちゃうんでしょう」
 しかしおじさんはこの言葉には答えずに、ふっと、息を吐きながら小さく笑って見せた。
「そろそろ期末試験なんじゃないの。風邪をひく前に、早く帰ったほうがいいよ」
 久しぶりに見たおじさんの笑顔。同時に目の前で玄関扉が閉ざされて、僕はひとり、午前3時の夜の下に置き去りにされていた。僕は一体何をしにきたのだろう。一体何を期待して、何を伝えるためにここまでやってきたというのだろう。
 それでも、
 ゆっくりと、おじさんに握らされた手のひらを開いていく。
 100円ショップで買える安物のライター。いつもお守りのように机の上に置きながら、それでも僕はおじさんが煙草を吸っている姿を1度も見たことがなかった。学生の時に禁煙をしたのだと言っていた。その煙草を今日吸っていた理由、今僕がおじさんのライターを持っているということ。
 僕は少しでも、おじさんの何かになることが出来たのだろうか。
 カン、カン、カン、カン、
 星がひとつもない夜闇の中、運動靴の踵が階段を叩く音が響き渡る。
(……寒いなあ)
 ライターを上着のポケットの中に仕舞い込み、かじかんだ両手にはぁと息を吹きかける。期末試験は明日だ。明日、というよりかは、太陽が昇った後の今日だ。けれどもこれで、心置きなく試験に集中することが出来るだろう。望んでいなくても夜に朝陽が差し込んでくるのとおんなじように。
 もうすぐ高校1年生が終わるという晩冬に、おじさんは僕たちの町から姿を消した。古い2階建ての木造アパート。1番端っこの部屋に、その後明かりが灯ったことは1度もなかった。



    *


 20歳を迎える誕生日の夜。僕は大学の友人と先輩たちに連れられて、渋谷の街に行った。お祝いをしてくれるという話だったはずだが、何かと理由をつけて遊びたいだけだったに違いない。行きつけだという焼き肉屋の店長に、出入り禁止を言い渡されるほどに大声を出して酔っぱらっていた先輩たちは、街の人混みに紛れていつの間にかその姿を消してしまっていた。
 明日のニュースで名前が出なければいいのだが。
 交差点で信号待ちをしながら、僕はぼんやりとそんなことを考えていた。まるで他人事のようだ。けれども本当に他人なのだから仕方がない。
「悪いなぁ、幸基。お前が今日誕生日だって言ったら、先輩たちが飲みに行こうって強引に誘ってきて」
 肩を並べて歩いていた友人が、心底申し訳なさそうな表情を浮かべて口を開いた。本当は1週間前から彼と2人で酒を飲む約束をしていたのである。
「しかもお前、渋谷は苦手だって言ってたのに」
「別にいいよ。酒は飲み過ぎたらいけないっていう、いい勉強になったから」
 午後10時45分。水曜日という平日の真っただ中であるにも関わらず、渋谷の街はたくさんの人たちで溢れかえっていた。乱立する雑居ビルと細い路地。煌々と灯る看板のLEDライトと街灯に照らされて、今が夜であることをすっかり忘れてしまいそうだった。田舎育ちの僕にとって、夜とは足元が覚束ないほどの暗闇と、そして静寂の象徴なのである。
 若者の街と言われる渋谷の街は、いつ訪れても異世界そのものだ。
「あ、そうだ。来週渋谷で行きたいライブがあってさ。ライブハウスの場所確認していってもいいかな」
 僕がその言葉に頷くと、友人は道端に寄って立ち止まり、上着の胸ポケットからスマートフォンを取り出した。グーグルで地図を検索しているのだろう。
 多分、あっちのほうだと思う。そう言って歩き出した友人の背中を追って、僕も苦手な人混みを掻き分けながら歩き始めた。
 雑多な飲食店や百貨店が軒を連ねる大通りから1歩脇道に入ったところで、街の雰囲気が少し変わったことに気がついた。
 様々な意匠が凝らされた外観の建物。色とりどりのネオン灯。看板にはっきりと記された「HOTEL」という5文字のアルファベット。渋谷の道玄坂から円山町にかけては有名なラブホ街なのだと聞いたことがある。田舎のラブホテルはその多くが郊外に建設され、生活の場からは切り離されている印象があった。しかしこの街では我が物顔でラブホテルが乱立し、老若男女、誰もが当たり前のようにホテルの前を行き交っている。僕が東京の大学に進学してから早くも2年半が経過していたが、今でも都会の街の中には新鮮な発見と驚きが溢れている。
 もちろんそれは、好ましいものばかりであるとは限らない。
「あれ? こっちじゃないのかな」
 道の真ん中で立ち止まり、友人がスマートフォンの画面を睨みつける。彼は大学の成績は優秀だ。ところがその代わりと言わんばかりに酷い方向音痴なのである。しかし僕も人のことは言えないので助け船を出すことはしない。
(……一体、何処からこんなにもたくさんの人が集まってくるんだろう)
 少し身動きをしただけで、すぐに通行人と肩がぶつかってしまう。飲み屋帰りらしい赤ら顔のサラリーマンの集団。大きな楽器ケースを背負った若者たち。こんなにも多くの人々が集まっているというのに、自分が知っている人間は誰もいない。自分のことを知っている人も誰もいない。それを寂しさと呼ぶならそうだろう。実家を離れて1人暮らしを始めても、幸か不幸か故郷の町を恋しく思い出すようなことは僕にはなかった。けれども都会の雑踏にはいつだって、孤独が息を潜めて他人に牙を剥いている。
 ふ、と。
 ただの景色でしかなかった人混みの中に、見覚えのある顔を見つけたような気がして胸の奥がざわついた。
 表情に乏しい奥二重の瞳。清潔感のある黒い髪と紺色のプラスチックフレームの眼鏡。笑っているところをあまり見たことがなかった。
(……まさか)
 きょろきょろと辺りを見回して、通行人の顔と目蓋の裏に浮かんだ顔とを照合していく。
 おじさんだ。
 最後に会った時から5年近い月日が経過していたが、おじさんはあの時から何ひとつ変わらない姿で存在していた。仕事帰りなのだろう。黒いスーツに身を包んだおじさんは、1人の男の人と一緒に歩いていた。しかし彼の服装はスーツではない。仕事の関係者ではなく、ただの友人なのかもしれない。酔っているのか、男の人の足取りは酷く覚束なかった。
 鼓動を強めた心臓を必死になって抑え込みながらおじさんたちの様子を窺っていると、連れの男性は俯いたまま数歩進んだところで、ぐったりとおじさんの身体にもたれかかってしまった。
「こら、こんなところで寝るんじゃない」
 聞き覚えのある声に、ふっと胸の奥から懐かしさがこみ上げてくる。それと同時に思い出したことがあった。
(あれ、もしかして……)
 一緒にいるのは、僕が中学3年生だった秋、おじさんのアパートを訪ねていた男の人ではないだろうか。
 明るい金の髪色と怖そうな風貌。彼が、おじさんと一体どういう関係なのかは知る由もない。けれどもきっと、親しい間柄なのだろうと僕は思う。あの頃の自分は幼く、暗がりの中で何ひとつとして見えてはいなかった。けれどもその男の人と向き合っている時のおじさんは、何処か穏やかで心安そうな表情をしていた。
 しばらくは友人の肩を揺さぶっていたおじさんだったが、ぴくりと動かない身体にとうとう諦めたのか、肩を組むようにして正体を失った友人の体躯を担ぎ始めた。確か男の人はおじさんよりも身長が高かったはずだ。僕は予想外の行動にびっくりしてしまう。見た目によらず、おじさんは力が強いのかもしれない。
 次の瞬間、
「……あ、」
 顔を上げたおじさんと目が合った。
 やばい。
 おじさんたちの行動を盗み見ていたという自覚があるだけに、僕は酷く後ろめたい気持ちになった。同時に腹の底からわき上がってくる失望も似た感情。
 どうせ、おじさんは僕のことなんて忘れてしまっているに違いない。
 けれどもおじさんは僕の存在に気がつくと、酷く驚いた表情を浮かべて動きを止めた。それはおじさんが僕に見せる初めての顔だった。途端に僕は酷く泣きたいような気持ちになる。
 果たして声を掛けていいのか悪いのか。分からずに、仕方なく僕は無言のままおじさんに向かって小さく頭を下げた。するとおじさんは固く引き結んでいた唇をふっと緩め、僕に向かって笑顔を見せてきた。いつも目にしていた神経質で気難しそうな仏頂面ではない。それはまるで、イタズラが成功したばかりの子どもにも似た満面の笑みだった。
 そのあまりのやわらかさに、僕は思わずどきりとしてしまう。
 抑え込んだはずの心臓が、再びその存在を主張し始める。おじさんは空いた左手の人差し指を1本、真っ直ぐに口の前に立てると、声を出さずに唇だけを動かして見せた。そうしてスーツの胸ポケットにその手のひらを突っ込むと、何か箱のようなものを取り出して、僕のほうへと向かって放り投げてきた。
 僕は慌てて両手を伸ばしてキャッチする。
「……これは」
 僕は驚きで目を見開いた。
 マールボロ・フレーバー・ワン・ボックス。おじさんが僕に投げて寄越したものは、白地に赤いマークが印刷された、開封済み煙草の箱だった。
 ――お前がちゃんと大人になったら、その時に買ってあげるよ。
 顔を上げて再びおじさんの様子を窺うと、おじさんは口元だけで笑いながら僕に背を向けて、酔った友人の身体を支えながらひとつの建物のほうへと向かっていった。
 ラブホテル。
 そこが一体どんな行為を意図して作られた場所であるのか。さすがの僕でも知っている。
 神経質で生真面目だと思っていた。自分にも他人にも厳しくて、仕事と勉強にしか興味がないのだと。もちろんそれも間違いではないのかもしれない。けれども僕がおじさんについて知っていたのは、きっとほんの一部分でしかなかったということなのだろう。しかし何故だかそのことに僕は酷く安心をした。
 ――誰だって、ひとりでいるのは寂しいことなんだよ。
 いつか聞いたおじさんの言葉がよみがえる。
「おーい。……幸基?」
 不意に名前を呼ばれて我に返ると、友人が訝しげな顔をして僕を見ていた。そこでようやく彼と一緒にライブハウスを探していたことを思い出す。
「……あ、ごめんごめん。道、分かった?」
 僕は友人に気づかれないよう、慌てて煙草の箱をカバンの中に仕舞い込む。
「多分、あっちだと思うんだよね。少し行ってローソンがあれば正解」
「じゃぁとりあえず行ってみようぜ」
「おー」
 友人の背中を追いかけながら、ちらりとおじさんが向かっていったラブホテルへと視線を送る。しかしおじさんの背中は何処にも見えなくなっていた。おじさんたちが本当にその中に入っていったのかは分からない。
 ひみつだよ。
 声もなく動いたおじさんの唇を目蓋の裏に思い描く。きっと、僕は今日の出来事を誰にも話さずにいるだろう。母にも、そして父にもだ。そうして一生心の中で大切に持ち続ける。
 大手の弁護士事務所に引き抜かれ、東京に引っ越していったおじさんは、その後何の便りも送ってくることをしなかった。年末年始やお盆におじさんと父の実家である祖父母の家を訪ねても、おじさんは1度も顔を見せてはくれなかった。
 両親と祖父は心配の裏返しでおじさんのことを怒ってばかりいたけれど、便りがないのは無事である証拠だと、祖母はいつも飄々とした態度を崩さなかった。おじさんは母親である祖母似であるらしい。いつか愚痴るようにして母がこぼしたことを覚えている。
 僕が当たり前のことのように東京の大学を受験すると決めたのは、頭の片隅におじさんとの約束が残っていたからなのかもしれないと、今になってそう思う。
(秘密の共有、って。何だか共犯者めいてるよなあ)
 未だに目的のライブハウスを見つけられないでいる友人の後を追いかけながら、ぼんやりと僕はおじさんと過ごしたこれまでのことを思い返していた。
 遅い時間にひとりで外をうろついている僕を見つけて叱ってくれた。先生よりもすらすらと源氏物語の一説を諳んじて見せた。僕はおじさんの言葉を1言1句覚えている。おじさんのように、他人との約束をすぐに忘れてしまうことはない。
(……だけど、今度はちゃんと守ってくれたから)
 これからは、おじさんの陰を追いかけずとも生きていくことが出来るだろう。
 僕はポケットの中から、ひとつの古いライターを取り出した。100円ショップで買える安物のライターである。歩きながら器用にカバンを開けて煙草の箱を取り出すと、数本だけ消費されて隙間が空いていたその中に、お守り代わりの青いライターをねじ込んだ。
 目蓋の裏にちらつく季節外れのホタルの光。記憶の中のおじさんは、いつだって暗い夜闇の下に佇んでいた。




***

Web再録
第5回 Text-Revolutions内有志企画「おじコレ」参加作品

おじレビューをいただきました!ありがとう御座います。



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