Top Page > 小説・散文 > 【短編】〇一八:住の江の
とぎれない、いつか : 通販  発行物一覧   音楽   表紙
01.28 Sat

【短編】〇一八:住の江の


 夢の中にいる時にも似た浮遊感がある。
 俊雪は夢というものを見たことがない。何か夢を見ていた、そんな漠然とした記憶が残っていることはあるものの、何の夢を見ていたのかを全く思い出すことが出来ないのである。そのためこの感覚はあくまでも俊雪の想像でしかない。けれども夢の中という表現が、今の状態には酷く似つかわしい。ぼんやりと窓の外を眺めながら、取り留めもなくそんなことばかりを考えていた。
 全ての客室から海が見えるという、オーシャンビューをウリにした能登半島の温泉旅館。大きな硝子がはめ込まれた男湯の脱衣所の窓からも、日本海の大海原が望めるはずである。少なくとも新幹線の座席で眺めた旅館のパンフレットの中ではそうだった。
 午前5時。
 夜明けまではまだ遠い。目の前に広がっている景色に光はない。視界はただただ夜闇に包まれていて、空と海との区別はつかない。暗闇の下半分、おそらく海があるであろうところだけがゆらゆらと細波によって揺らいでいるのが分かる。それがこの不思議な浮遊感の正体なのかもしれない。硝子一枚だけを隔てた夜の海。たとえそこにどんな危険が潜んでいたとしても、温白色の間接照明で照らされた脱衣所に害は及ばない。それでいて砂浜に立っているかのように、さらさらと足もとが浚われていく心地があった。

「ユキちゃん?」
 不意に声が聞こえて振り返ると、そこにいたのは同級生の譲であった。黒に近い焦げ茶色の髪。透けるような暗褐色の瞳。背にした脱衣所の青い暖簾が似合わないと思うのは、果たして自分だけなのか。
「ゆず、」
 こんな早い時間に一体どうしたというのだろう。俊雪は思わず驚きの声を漏らした。まさか彼がひとりで朝風呂に入りに来るとは夢にも思っていなかったのである。しかし驚いているのは譲にとっても同じことであるらしい。
「え、ユキちゃんもう風呂上がり? 早くない?」
 何処か咎めるような早口で言いながら、謙は脱衣所に並べられたラタンの長椅子を器用に避けて近づいてきた。まだ起床したばかりなのかもしれない。彼が身につけた浴衣は皺くちゃで、合わせも右前になってしまっている。普段は丁寧に整えられている髪も、今では派手な寝癖がついたままである。手にしているバスタオルだけが綺麗に折り畳まれた新品だ。しかしそのちぐはぐさを、何故か謙らしいと思ってしまうのだから不思議なものである。
「俺は風呂が開いた4時半から来てる」
「昨日のうちに声を掛けてくれればよかったのに」
「お前は他のみんなと入ると思ってたから」
「それはそーだけど、」
 謙は小さな子どものように頬を膨らませ、小さく眉を顰めてからその視線を足もとに落とした。普段は饒舌に淀みなく言葉を発する彼が、不意に見せる一瞬だけの空白。けれどもその空白にこそ本当の彼がいるのかもしれないと、俊雪は時々何の根拠もなくそう思う。
 来たよ、と。
 ぽつりと薄い唇からこぼれ落ちてくる言葉。
「言ってくれれば、それでも俺はユキちゃんと一緒に温泉に入りにきたよ」
「……それは、どーも」
 2泊3日の修学旅行。クラスメイトではない謙とは、道中行動を共にするグループも、旅館の部屋割りも異なっている。たとえ修学旅行中であったとしても、俊雪は風呂はひとりでのんびりと浸かりたい派だ。それに対して謙は社交的で友達も多い。昨夜、旅館の廊下でクラスメイトたちと浴衣を抱えて楽しそうに歩いている横顔を見た。一寸の隙もない彼の笑顔に、最後まで声を掛けることは出来なかった。
 言いたいことを言って気が抜けたのか、謙はそのまま近くの長椅子に腰を下ろした。ギシ、というラタンが軋む鈍い音が耳に届く。同時にこぼれ落ちてくる小さなため息。けれどもどうしても彼の隣りに座る気にはなれなくて、俊雪は立ったまま再び窓の外に視線を向けた。
 相変わらず硝子の向こうに光はない。夜明けとはいつ頃訪れるものなのか。よく磨かれた窓硝子の表面に、浴衣姿の2人の男が映っているのが見えた。1人は仏頂面にも似た表情で窓の外を睨みつけ、もう1人は穏やかな笑顔を浮かべたまま、やはり真っ直ぐに窓硝子の向こう側を見ている。
「ユキちゃんのクラスは昨日何処に行ったんだっけ?」
 温泉に入ることをやめたのか、謙がいつも通りの口調で話し掛けてきた。修学旅行初日の昨日は、クラスごとに能登半島を観光するバスツアーが組まれていた。
「のとじま水族館」
「ジンベイザメがいるところだっけ? どうだった、大きかった?」
「めちゃくちゃでかいのが3匹もいた。あんなのと海で遭遇したら、勝てる気がしない」
 全長20メートル弱。現生最大の魚とされているジンベイザメだが、サメといっても性格はとても温厚でおとなしく、むしろ臆病とも言われているほどだ。たとえダイビング中に出会ったとしても、闘う機会が訪れることはないだろう。
「いいなぁ、俺も水族館行きたかったなぁ」
「ゆずのクラスは?」
「うちは輪島塗の体験学習。工房を見学して、実際にお椀に絵を描いてきた。あとで写真見せるね。俺は強そうだから松にしたんだけど、ユキちゃんだったら何を描く?」
 強そう、という小学生のような発想に、俊雪は思わず笑ってしまいそうになる。
「そうだなぁ……」
 俊雪は人と話をするということがあまり得意ではない。一体どんな話題を提供すれば相手が満足をしてくれるのか、それがよく分からないのである。けれども謙といる時だけは、そんな気兼ねの必要もなく話をすることが出来た。質問を投げかける形で相手から言葉を引き出し、それに肉付けをすることで会話を膨らませいく。それが謙式の話術なのだった。
「今日は金沢観光だね。楽しみだなぁ」
 修学旅行2日目の今日は、グループごとにタクシーを終日貸し切り、金沢市を中心に自由に観光をする予定になっている。北陸新幹線の開通を契機に、金沢市の観光地がテレビや雑誌で特集されることが増えた。そのため同級生たちが金沢に抱く期待や憧れは何処か新しく洗練されていて、誰もがこの2日目の自由行動を心待ちにしていたのである。
 けれども謙は「楽しみ」という言葉から一転、声のトーンを落として不満げな口調で呟いた。
「せっかくの修学旅行なのに、同じクラスじゃないと一緒に行動出来ないっていうのは、なんか納得しがたいけどね」
 謙と出会ったのは高校1年生の時だった。クラスメイトではない。同じ路線のバスで登下校をしていた。彼とはただそれだけの関係なのである。
 俊雪たちが通う高校がある町は、公共交通機関があまり発達していない。唯一存在する駅が高校に近いということもあり、バスで通学をしている同級生は殆どいなかった。
 ――ねぇ、きみ、1の3の藤原くんだよね?
 先に声を掛けたのは謙だったと記憶している。
 けれどもそれよりも前から俊雪は謙の存在を知っていた。身長185センチの長身。よく通る大きな声。意識せずともその存在は自然と視界の中に入ってくる。社交的でお喋りが好きな彼は、いつ校内ですれ違っても、友達と肩を並べて楽しそうに話をしていた。
 毎日片道30分だけのふたりの空間。
 朝は謙のほうが後からバスに乗車して、帰りは彼のほうが先に降りる。校内にいる時は互いにクラスメイトと行動を共にしていて、会話を交わした覚えはあまりない。
(一緒のクラスになれれば、自分たちの距離はもっと近づくのだろうか)
 肩を並べて同じバスに揺られながら、俊雪はぼんやりとそんなことばかりを考えていた。けれども結局最後まで、ふたりが同じクラスになることはなかった。
「この修学旅行が終わったら、本格的に受験生になるんだよなぁ」
「……そう、だね」
 俊雪の言葉に、謙は珍しく言い淀んで見せた。きっと、あまり触れられたくない話題であったに違いない。高校3年生の9月ともなれば、自然と教員もクラスメイトも受験に関する話題を口にする機会が多くなる。けれども謙とは一度も互いの進路について話をしたことがなかった。つまり、そういうことなのである。
 窓の外。ようやく白み始めてきた空が、一本の水平線を描いて海との境界を主張している。夜明けがもうそこまで迫ってきているのだろう。しかし徐々に明らかになっていく景色と反比例するようにして、窓硝子に映る謙の顔は鮮明さを失っていった。斜め後ろに座る彼が今、一体どんな表情を浮かべているのか分からない。
 俊雪はすぅと一度深呼吸をすると、意を決して口を開いた。たとえここで自分が口を噤んだとしても、近い将来に必ず風の噂で耳にすることになる。だったらせめて、本人の口から直接答えを与えて欲しかった。
「卒業したらアメリカに行くって、本当なのか」
 地毛だという黒に近い焦げ茶色の髪と、透けるような暗褐色の瞳。他人に指摘をされて、初めて「確かに」と気がつく、けれどもその程度でしかない彫りの深い顔立ち。始め俊雪は知らなかった。出会ってから半年ほど経つまでずっと知らないままだったのである。ゆずる、それが彼の本名なのだと思っていた。ジョー、というのは、彼のクラスメイトがつけたニックネームなのだと。
 ――いいよ、藤原くんはゆずるって呼んでくれても。その代わり、……
 ふっ、と。斜め後ろで謙が笑う気配が、自分たち以外は誰もいない空っぽの脱衣所に響きわたった。
「父親がミシガン州にある本社に異動することになってね。向こうの大学に通うつもりなんだ」
 すらすらと滑らかにこぼれ落ちてくる言葉。きっと、幾度も幾度もクラスメイトたちに聞かれては答えてきた内容なのだろう。
「でも、どっちの国籍を選ぶかはまだ決めてない」
 日本人の父とアメリカ人の母を持つ謙は、生地主義を採るアメリカの病院で生まれた。そのため今は日本国籍とアメリカ国籍の両方を所有している。日本には国籍法という法律があり、重国籍者は22歳に達するまでにどちからの国籍を選択しなければならないと定められているのである。
「まだあと4年もあるからね。焦らずにゆっくり考えることにしてるんだ」
 4年という歳月が、長いのか短いのかは俊雪には判断がつかない。問い掛けの形を持たない言葉に何と答えたらいいのか分からずに、俊雪はただ黙って空っぽの脱衣所を満たす謙の声を聞いていた。
 小学校に上がるのと同時に日本に移り住んできたという謙は、青春の殆どをこの日本で過ごしている。けれどもそれだけを理由に日本国籍を選ぶことが出来なかったのだろう。だから彼は家族と一緒に渡米する道を選んだ。大学生ともなれば、単身日本に残ることも出来るはずなのに。淡々と、それでいて力強く口に出された答えが、彼の覚悟の強さを物語っていた。
 高校生活の3年間、俊雪と謙は一度も同じクラスになったことがない。片道30分だけのふたりの空間。時に眠たそうに目を擦りながら。時に沈んでいく夕陽の姿を眺めながら。俊雪はいつだって楽しそうに話をする謙の声を聞いていた。凛々しいその横顔に促され、下手くそな言葉を紡いでは、それでも一緒に声を上げて笑い合っていた。
 そんな謙との関係も、あと半年足らずで終わりを迎える。しかし彼がアメリカに行こうとも、日本に残ろうともその事実に変わりはないのだ。
 いつの間にか、眼前の空はすっかり朝焼けの色に塗り潰されていた。千切れ雲がまだ目には見えない光をあちらこちらに反射させていて眩しい。きらきらと。真正面の空と海との境目に、銀鱗が泳いでいるのが見えた。間もなく水平線から太陽が顔を出すに違いない。
 海から朝陽が昇る瞬間を目の当たりにするのは初めてだ。
 小さな興奮が俊雪の胸を満たし始めた次の瞬間、沈黙を落としていた謙が再び口を開いた。
「住の江の、岸による波よるさえや、夢の通い路人目よくらむ」
「……は?」
 突然の言葉に、一体何を言われたのか分からなかった。俊雪は思わず訝しげに声を上げてしまう。しかし先ほどまでの真剣な様子は何処へ行ったのか、謙はひとり飄々とした口調で笑っている。
「あれ、ユキちゃんは覚えてないの。百人一首の有名な歌だよ」
 百人一首。俊雪は必死で記憶の糸を手繰った。確かそれは100人の歌人の優れた和歌を、一首ずつ集めたものであったはずである。謙は文系クラス。俊雪は理系クラス。古典の授業で取り上げられたことはあるが、幸か不幸か歌を暗記させられた記憶はなかった。
 俊雪が困惑している気配を感じ取ったのだろう。謙は何も尋ねなくても先ほどの和歌の意味を教えてくれた。
「これは恋をした人に会えないことを嘆く、女の人の歌なんだ」
 住の江の岸辺には、昼夜を問わずに波が打ち寄せている。それなのに、夢の中でさえ恋しい貴方は私のところに通ってきてはくれない。昼間だけでなく、夜までも貴方は人目を避けているのでしょうか。
「この歌が詠まれたのは平安時代でね。夢の中に出てくればくるほど、その人が自分のことを想っていると信じられていたんだ」
 ただ人目を避けているだけなのか。それとも心変わりをしてしまったのか。夢の中でも自分に会いに来てくれない「その人」を、彼女はきっとやきもきとした気持ちで待ち続けていたに違いない。
 謙の解説を聞いて、俊雪はようやく和歌の意味を理解した。けれどもどうして、今この瞬間に彼はこの歌を口にしたのだろう。相変わらず彼の心の内側が分からないまま、何処か鉛を飲み込むにも似た胃の重さを感じていた。
「実はアメリカの大学で日本の古典文学の研究をしたくてさ。百人一首は全部覚えたんだよ」
 もちろん、作者の名前も一緒にね。
 ギシ、と。ラタンの長椅子が鈍い音を立てて鳴った。斜め後ろに視線を送って確認すると、どうやら謙が脚を組んだらしい。彼の唇から次々と発される言葉は軽やかだ。同時に彼がどんな表情を浮かべているのかを確かめてみようとも思ったが、一瞬だけ悩んでそれはすぐにやめにした。
 日本にいても出来る古典文学の研究を、わざわざアメリカの大学に行ってする。それも何処か彼らしいちぐはぐさのひとつ。
「俺、夢って殆ど見たことがないんだよね。多分、何かしら見てはいるんだろうと思うんだけど、起きた瞬間に全部忘れてる」
「それが、」
 一体なんだと言うのだろう。あまりに脈絡のない謙の話題に、腹の底からふつふつと小さな苛立ちがわき起こってくる。それでも彼は俊雪の抗議を遮って、続きの言葉を口にした。
「だから、俺はユキちゃんが夢の中の出てきても分からない」
 しかしその主張を耳にした瞬間。ふっと、俊雪は胸の中が軽くなったことを自覚した。
 あぁ、自分とおんなじだ。
 謙の声を聞きながら、次第に今度は滑稽な気持ちになってくる。
「それが、すごく残念だなぁって思ってさ」
「安心しろよ。俺も夢、殆ど見ないから。お互い様だろ」
「……そっか」
 そっかあ、と。噛み締めるように繰り返し口にして、謙はようやくその口を閉ざした。安堵であるのと同時に、それは深い諦めでもあったのかもしれない。手放さずにいられるのと同時に、手に入れることも出来ないということ。けれどもそれはただ、絶望とだけ呼び表されるものではないのだろうと俊雪は思う。
 ……そう、多分。きっと。
 黙り込んでしまった譲の代わりに、今度は俊雪が口を開いた。ここは誰かの夢の中ではない。もっと、今この瞬間に謙の声を聞いていたかった。俊雪のものよりも少しだけ高い彼の声は、酷く心地よい響きをもって、俊雪の中に染み込んでくる。
「住の江、って、何処?」
「今でいう、大阪の住吉区」
「じゃぁ海って大阪湾のことかよ。ここ、日本海だぞ?」
 よくも住の江の歌など持ち出せたものだ。こじつけにもほどがある。俊雪は呆れ声を上げてしまった。しかし謙は悪びれた様子もなく飄々とした声で言い放つ。
「でも、大西洋よりはずっと近い」
 前言撤回だ。
「……同じ、全部同じ海だろ」
 交通機関も連絡手段もない殆どない平安の世では、互いの気持ちを確かめるために「夢」を利用した。俊雪たちには電話もメールもラインだってある。その気になれば一瞬で相手に気持ちを届けることが出来るし、バスに電車に飛行機に飛び乗れば、何処にいたってすぐに会いに行くことが出来る。
 それなのに、決して自分たちはそれを試みようとはしない。そしてきっと、そのほうがいいのだろうと俊雪は思う。
 行くな、と。謙を止める権利は俊雪にはない。そして彼にも受け入れる義務はない。そのことを自分たちは互いに知っている。知っていて、それでもなお幼子のように駄々をこねている。物分かりのいい大人のフリをして、それでいてただ背伸びをしただけの子どもの言説で。
 しかしそれもまた、愛おしいちぐはぐさのひとつ。
 知らず知らずのうちに俯かせていた顔を上げ、俊雪はぼんやりと窓の外を眺めた。透き通るほどの深い空の青。水平線から顔を出した橙色の朝陽に照らされて、鮮やかな光の道が一筋、真っ直ぐにこちらに向かって走ってきている。初めて見る景色はまるで、これまでの価値観を一気に塗り替えてしまうのではないかと思えるほどに美しかった。
「夢の通い路、って。こんな感じなのかなぁ」
 謙がぽつりと小さな声で呟いた。夜闇に包まれて、人目を避けて通った道だ。こんなにも明るいはずがない。
 それでも、
「……確かに、そうなのかもしれないな」
 他の誰でもない、当の本人たちにとっては、目映いものに見えていたに違いない。夢の中、誰の目も気にする必要もなく出会うことの出来る道。

 ざわざわと、遠くから人の話し声が聞こえてきた。途端に現実に引き戻されたような感覚。振り向いて脱衣所の壁に掛けられていた時計を確認すると、5時40分、謙と話し始めてからすでに30分以上が経過していた。
 複数の足音が脱衣所に向かって近づいてくる。しかし暖簾を上げて中に入ってきたのは、同じ高校に通う同級生ではなく、見覚えのない年輩の男性たちだけだった。彼らは先客である俊雪たちの存在など一切気に留めていないようである。そのことに何故だかほっと胸を撫で下ろす。男性客たちは窓硝子の外に視線を送り、ご来光の美しさを口にしながらあっという間に浴衣を脱いで、次々に温泉へと続く扉の向こうに消えていった。
 ガラガラガラ、
 硝子の引き戸が閉まると脱衣所には静寂だけが残された。思わず謙と顔を見合わせて笑ってしまう。彼と視線を合わせたのは今日、これが初めてのことだった。
「……それじゃ、俺も温泉に入ってくるね」
 謙がラタンの椅子から立ち上がる。重みを失った長椅子が、ギィと何処かもの寂しげな音を奏でた。
「ユキちゃんはこれからどうするの?」
「特にすることもないし、部屋に戻って二度寝かな」
「あ、それもいいね。気持ちよさそう。……それじゃ、また」
 笑顔を浮かべ、バスタオルを手に脱衣カゴの並んだ棚に向かっていく謙の大きな背中に呼び掛ける。
「ゆず、」
 謙はぴたりとその場で立ち止まり、しかし終ぞ俊雪のほうを振り向いてくることはなかった。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
 窓硝子の向こうですっかり姿を現している太陽。きらきらと朝陽を反射して輝く穏やかな海。日本海というのはもっと気性の荒いものだと思っていた。俊雪は洗面台に置いていたバスタオルを専用の回収カゴの中に放り込み、脱衣所の出入り口へと向かった。最後に謙の表情を確かめることはしなかった。
 そうして、夢の中に通ってきてくれない「誰か」を恨んでいた女の人は、その後どうしたのだろうということを考える。
 ただのすれ違いで、無事にまた夢の中で顔を合わせることが出来たのか。それとも想いをしたためた手紙を書いたのか。それすらも出来ぬままに終わってしまった関係だったのか。
 カラン、
 青い暖簾をくぐり抜け、履いた下駄が軽やかな音を立てる。
 きっと、謙は何も言わずにアメリカに行くに違いない。そして俊雪は見送ることをしない。片道30分だけのふたりの空間。始めから別々だった2本の道が、3年の間だけ交差していた。ただそれだけのことだった。けれども本当に大切なものであるならば、何処かで再び出会うこともあるだろう。それは街中の交差点かもしれない。旅先の曲がり角かもしれない。
 夢の中でのことかもしれない。
 その瞬間はいつだって何処にも転がっていて、気がついた時にはすぐに目の前にやってきている。あの日、初めてバスの中で言葉を交わしたのとおんなじように。
 人気のない旅館の廊下を歩きながら、俊雪は大きく伸びをした。瞬間にふわぁと口から欠伸がこぼれ落ちてくる。
 今日はきっと夢を見るだろう。
 確かな根拠は何もない。けれどもそんな、不思議な確信を抱いていた。
 薄暗い廊下の絨毯に、窓の外からゆっくりと太陽の光が差し込んできた。あまりの眩しさに目を細める。しかし目蓋の裏にはずっと、水面に描き出された一筋の光の道が浮かんでいた。それが、謙にとっても同じであればいいと思う。





子どもたちは夢を見ない


百人一首アンソロジー「さくやこのはな」参加作品
 http://sakuyakonohana.nomaki.jp 〇一八 住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ " target="_blank" title="さくやこのはな">http://sakuyakonohana.nomaki.jp
〇一八:住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ
スポンサーサイト